いよいよ大詰めです。弁護人の最終弁論
に代わるものとして、被告人による最終意
見陳述が行なわれました。
最終意見陳述要旨


平成16年(ろ)第74号 京都市屋外広告物等に関する条例違反被告事件
被告人 井上昌哉
京都簡易裁判所刑事2係御中
2005年2月7日


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目次

第1 表現の自由
1 電柱はパブリック・フォーラムである
2 東一条交差点という空間の特殊性
3 川端警察署も屋外広告物を掲出している 【 検察官の異議により削除 】
4 LRAの基準について


第2 可罰的違法性
1 本件行為はそもそも構成要件に該当しない
2 本件は法益侵害が相対的に軽微であり可罰的違法性が阻却される
3 ビラ貼りは有罪か


第3 故意と違法性の意識
1 違法性の認識はなかった
2 取調べの実際
3 違法性の認識の可能性はなかった
4 意味の認識について


第4 違法な逮捕・抑留
1 本件現行犯逮捕は逮捕の必要性の要件を欠いた違法な逮捕である
2 本件留置継続は留置の必要性の要件を欠いた違法な抑留である
3 被告人は無罪判決を求める


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第1 表現の自由


1 電柱はパブリック・フォーラムである
 パブリック・フォーラムが表現の場所として用いられるときには、表現の自由の保障に最大限、配慮する必要がある。ストリートは最も純粋なパブリック・フォーラムであるが、歩道の電柱もまたその機能を持つことは疑いがない。
 大分県屋外広告物条例違反被告事件における伊藤正己裁判官の補足意見は、「ビラやポスターを貼付するに適当な場所や物件は、道路、公園等とは性格を異にするものではあるが、私のいうパブリック・フォーラム(昭和59年(あ)第206号同年12月18日第3小法廷判決・刑集38巻12号3026頁における私の補足意見参照)たる性質を帯びる」(最三小判昭62・3・3刑集41・2・15)と明確に判示し、このような性質の場所では、「それぞれの事案の具体的な事情に照らし、広告物の貼付されている場所がどのような性質をもつものであるか、周囲がどのような状況であるか、貼付された広告物の数量・形状や、掲出のしかた等を総合的に考慮し、その地域の美観風致の侵害の程度と掲出された広告物にあらわれた表現のもつ価値とを比較衡量した結果、表現の価値の有する利益が美観風致の維持の利益に優越すると判断されるときに、本条例の定める刑事罰を科することは、適用において違憲となるのを免れない」と述べている。そこで、本件事案に関する具体的事情について検討することにする。


2 東一条交差点という空間の特殊性
 まず、東一条交差点という場所の持つ特殊性がある。それは、この場所の景観、街並みが、まさに「立て看板やビラの常時掲出されている場所」として、長年の間、京都市民に親しまれてきたという事情である。東一条交差点は、本部構内・吉田構内・西部構内・病院構内という京都大学の4つのキャンパスの中心として、百万遍交差点と並んで最も通行者の多い地点として知られている。この場所に、年間を問わず学内団体の立て看板が林立し、さらに付近の街路樹や電柱に、演劇サークル等の告知ビラが常時多数貼られていることは、京都大学周辺に居住する住民にとっては公知の事実である。つまり、大学のそばに立て看板やビラが多数掲出されている風景というものは、まさに大学というもの、京都大学というもののイメージを形作ってきたひとつの文化的景観にほかならないのである。
 検察官は、本条例にいう「美観風致」「景観」というものが、哲学的・美学的な概念ではなく、「その時代、その地域の人々の、その住む街を美しくしよう、少なくとも現状より汚くはすまいという素朴な、しかし、とうてい否定し去ることのできない感情を基礎として、良識的に決定される、いわゆる社会通念を基準として判断されるもの」だとするが、まさにこの社会通念を基準として、東一条付近のビラ貼りは長く市民に許容されてきたのであり、いやむしろ、大学が社会に情報を発信するメディアとして、大学らしさを醸し出すひとつの風景として、積極的に認容されてきた確固たる歴史があるのである。
 したがって、一般にビラやポスターの乱雑な掲出が美観風致を害するおそれがあることは言うまでもないとしても、事件現場の東一条交差点においては、この事実は当てはまらないのであり、美観風致の要保護性の高低を何ら考慮に入れることなく、これを一律に刑事罰で規制しようとすることは、過度に広範な規制として適用違憲であることを免れないといえるのである。


3 川端警察署も屋外広告物を掲出している 【 検察官の異議により削除 】
 東一条交差点は、伝統的パブリック・フォーラムとして、学生ばかりでなく市民にも広く活用されている。実際、不当にも却下された被告人申請証拠番号1において明らかなように、現場の東一条交差点の南東角・南西角のガードレールには、まさにこれを取り締まる側の川端警察署が、「歩行者 自転車に注意 川端警察署・川端交通安全協会」と大書した横断幕を計2枚掲出しているのである。この事実は、東一条交差点が人目を引く広告にまさにうってつけの場所、すなわちパブリック・フォーラムとして効果的に機能していることを雄弁に物語っている。ちなみにこの2枚の横断幕は、それぞれ幅220cm、高さ51cmの大きさで、黄色のビニール地に赤の文字で書かれた、およそ醜悪としか言いようのないデザインと色彩感覚で周囲に異彩を放っているのである。
 私は疑問に思う。なぜ、この醜悪きわまりない巨大な横断幕の掲出が法律で許され、私の貼った1枚の小さなビラは法律に違反しているのか。もし京都市屋外広告物条例が、表現内容に対して完全に中立的に、あらゆる広告物を美観保護の名目で規制するのであれば、まず真っ先に撤去されねばならないのは、この横断幕ではないのか。それに対し、もし広告物がその表現内容の公益性等さまざまな事情、すなわち社会的相当性によって、多少とも美観を損ねることが許されるのであれば、どうして私の盆踊りの案内ビラが許されないのだろうか。不可解である。私にはまったく分からない。


4 LRAの基準について
 本条例の上位法たる屋外広告物法15条は、「この条例の適用にあたっては、国民の政治活動の自由その他国民の基本的人権を不当に侵害しないように留意しなければならない」と定めている。表現の自由の保障については、個人の自己実現のために重要であるばかりでなく、民主主義のプロセスにおいても不可欠であるから、経済的自由など他の権利に比べて手厚く保護されるべきだという二重の基準論が、学説では支配的である。また最高裁も、小売市場事件判決で、いわゆる二重の基準説を採用したとされている(最大判昭47・11・22刑集26・9・586)。また学説上、表現内容規制に比べて、表現内容中立規制はより緩やかな基準で合憲性を審査するという二分説は採るべきではなく、共により厳格な基準を適用すべきである、とする説が有力に唱えられている。表現内容と行為とが事実上切り離せないものである以上、時・所・方法の規制については、内容規制とほぼ同等の審査基準、すなわち「必要最小限度の基準」ないし「LRAの基準」が用いられるべきである。しかし最高裁は、これまでいわゆる「一括合憲論」というべき、公共の福祉を理由とした門前払いを行なってきた。このような合理性による基準は、結果として表現の自由の行使を著しく狭めるものであり、全面的に不当である。
 判例では、猿払事件第一審判決(旭川地判昭43・3・25下刑集10・3・293)、全逓プラカード事件第一審判決(東京地判昭46・11・1行集11・12・1755)など、むしろ下級審の判例にLRAの基準を適用したものが多い。電柱等へのビラ貼りを禁止した大阪府屋外広告物条例を違憲とする枚方簡裁判決も、その禁止は「憲法上最も基礎的且つ重要な表現の自由の保障に対する、真に必要にして止むをえない最少限度を超えた不当な制限である」(枚方簡判昭43・10・9判時538・25)としている。


第2 可罰的違法性


1 本件行為はそもそも構成要件に該当しない
 すでに述べたように、被告人がビラを貼った現場である東一条交差点付近は、常時乱雑なビラが貼られていた区域であり(検察官請求(甲)証拠番号4の写真7〜12参照)、また本件当該のビラは、たかだかB5サイズの大きさにすぎず、色彩も淡いクリーム色であり、貼付した枚数もわずか1枚であったことから、周囲の美観風致を害するおそれは極めて限定されたものであった。したがって、このようなケースは、法益侵害が絶対的に軽微な場合として処罰に値せず、そもそも構成要件該当性が存在しない。


2 本件は法益侵害が相対的に軽微であり可罰的違法性が阻却される
 最高裁は、可罰的違法性阻却を理論としては一貫して認め、近年は「当該行為の具体的状況その他諸般の事情を考慮に入れ、それが法秩序全体の見地から許容されるべきものであるか否か」という、いわゆる「久留米駅事件方式」を採用してきた(最大判50・8・27刑集29・7・442等)。すなわち、今回の行為が仮に構成要件に該当するとしても、その行為に至る目的の正当性、手段の相当性、結果として生じた被害の程度、必要性等、諸般の事情を考慮し、法秩序全体の見地からして、刑事罰に処するに値する程度の違法性を備えるに至っておらず、犯罪が成立しない場合もあり得るのである。
 そこで、本件における違法性阻却事由を整理してみると、第1に、今回のビラ貼りが、地域の盆踊りの案内表示という極めてパブリックな公益性の高いものであり、かつビラに「参加無料」と明記されていることから、営利性の全く存在しない催しであることは明らかである(ライブの性格については、被告人申請証拠番号3参照)。したがって目的の正当性が認められる。
 第2に、問題のビラ貼りが、催しの本番からわずか3日前に行われていることや、また西部講堂外壁等に貼付した他のビラには赤マジックで行先表示を記していたことなどから、当該ビラは広告ではなくむしろ会場案内の性格が強いものであった。したがって、催し終了後は即座に撤去するつもりであったし、またその際撤去を容易にするために、ビラの上下をガムテープでとめるという簡単な貼付方法をとっており、撤去後に何の痕跡も残さないものであった。また美観の点でも、現場周辺はすでに多数のビラ、ポスターが貼られており、むしろその風景が市民に親しまれてきたともいえることから、特にビラ貼り規制の必要性が高い地域であるとはいえず、当該のビラが小型でわずか1枚であることからも、本件には手段の正当性が認められる。さらに表現の自由との法益衡量からも、ビラ貼りは経済的に恵まれない者にとってほぼ唯一の廉価な大衆的伝達手段であるから、その行使が正当化される。
 第3に、被告人は事件当時、電柱に非営利のビラを貼ることが違法であるとの認識を全く持っておらず、また付近に公共の掲示板等が存在していない状況を鑑みても、いわばやむを得ない行為としての必要性が認められる。
 よって、以上3点の事情を考慮すれば、本件は法益侵害が相対的に軽微であって可罰的違法性が阻却されるべき事案であることは明らかだから、無罪の判決を言い渡すのが相当である。判例においては、下級審において可罰的違法性阻却を認めた無罪判決がコンスタントに出されているのが注目される(福岡高那覇支判昭56・2・2判時1008・204、東京高判昭56・4・1判時1007・133、東京地判昭56・7・1判時1050・166、東京高判昭57・8・4判時1053・177、大阪高判昭58・5・10判時1088・150、大阪地判昭59・5・30判タ538・231等)。ビラ貼りに関しては、堺簡裁ビラ貼り無罪判決(堺簡判昭62・5・20法教85・110)のほか、最近でも立川自衛隊監視テント村によるビラのポスティングが住居侵入罪に問われた事件で、一審無罪判決が下されたことは記憶に新しい(東京地八王子支判平16・12・16)。


3 ビラ貼りは有罪か
 そもそも非営利のビラ貼りは、社会通念上、正当と認められ、また現下の法社会感情からもおおむね許容されている。実際、京都市屋外広告物条例を担当する部署である、京都市都市計画局都市景観部都市景観課に照会したデータによると、平成12年度から16年度までの過去5年間に、同条例違反の容疑で警察から同課に照会のあった件数は計154件、うち非営利の広告物が照会された件数は計3件である(被告人申請証拠番号2)。この3件のうちには、今回の事件に伴う照会(検察官請求(甲)証拠番号7)が入っているので、実質的には5年間に2件の非営利ビラ摘発が行われたわけである。このうち、2001年に政治的意見を表明するビラ貼りを摘発された事件については、「勾留期間中に準抗告が通って釈放され、その後、検察庁で不起訴処分になった」との証言が得られた。すなわち、上述の数値は即、有罪確定の実数を表すわけではない、ということに注意を促したい。
 つまり現在、捜査実務上は、極めて少数の非営利のビラ貼り摘発を行なっているにすぎないのであり、第3回公判における瀬下証人の証言からも窺えるように、今回の事件において、まことに恣意的な検挙が行なわれた疑念はぬぐえないのであり、その意味で平等原則に著しく反するものといえる。そもそも、広告物の掲出を規制する対象があまりに広範囲にわたっていて、もしこの条例を厳格に適用したとするなら、公共の掲示板等が極めて限られている現状では、事実上、迷子の飼い犬を探すことすら不可能になってしまう。そのような過剰な規制が一般の社会通念からも支持されないであろうことは明白であり、捜査当局もその点を配慮して非営利ビラの摘発を控えているように思われる。ビラ貼りは有罪か。そもそもビラ貼りに有罪宣告を言い渡す意味は何か。言うまでもなく、有罪判決とは、被告人に対する圧倒的な否定的価値評価の宣告に他ならない。今回のビラ貼りに有罪判決を下すことは不当である。そこにはいかなる感銘力も存在しない。それは、結果として「著しく正義に反する」ことになるのではないだろうか。


第3 故意と違法性の意識


1 違法性の認識はなかった
 本項では、事件当時、被告人自身に違法性の認識があったのかどうかを検討する。当公判廷で取調べられた各証拠によれば、事件当時、被告人が京都市屋外広告物条例の存在を知らなかったことは明白である。例えば、第3回公判における瀬下義光証人の証言によれば、被告人は「本条例の存在自体を知らない」と繰り返し、繰り返し述べていたことが窺えるし、逮捕状況を報告した検察官請求(甲)証拠番号9でも、被告人が「悪いことだと知らなかったし、よく理解してないので立ち会いはできない」旨の発言をしたことが記載されている。川端署引致後すぐに作成された、堀江俊久警部補作成による被告人供述調書(検察官請求(乙)証拠番号3)において、「それに私は、電柱等にこのようなチラシを貼るのが違反で、法律に触れる行為であることは全く知りませんでしたし、今回の催しが終われば、すぐはがすつもりでしたので、景観をこわすということにもならないと思いましたので、この屋外広告物条例違反という話と更には、現行犯逮捕されたことについては納得できないのです」と供述していることも、この事実を裏付けている。
 ではなぜ、被告人はこの供述を、後に変遷させたのか。その理由は、検察官の主張するように、「被告人の刑責を少しでも軽減したいとの目的」などでは断じてない。そのような浅薄な動機から供述を二転三転させることには、合理的な理由がない。このことを明らかにするために、事件当日午後に作成された、藤野克義巡査部長作成による被告人供述調書(検察官請求(乙)証拠番号4)を仔細に検討することにする。
 まず、違法性の認識の有無について、調書の「3」の部分において、被告人は「私自身としては、今回の行為が、法律に違反することは、はっきり分かっていませんでしたがモラルとしていけない行為であるということは分かっていました」と供述している。これに続けて証拠品の確認がすべて行なわれた後、調書の締めくくりの「9」の部分において、まさに取ってつけたように、「最後に反省の意味をこめてもう1度言いますが私は、今回の行為が法律に違反するということは、十分に分かっていました。自分自身に心の整理が出来てなくて、知らなかったと言っていたのです」と付け加えているのである。同一の調書の、その初めと終わりの部分で、どうして供述がまったく食い違うのか。極めて不自然である。
 第4回公判において藤野克義証人は、供述調書を作成している途中に被告人が当番弁護士と接見し、すっきりしたのでしゃべる気になったから、とその理由を説明している。しかしこれは偽証である。当公判廷で明らかになったように、当日午後の取調べはすべて、藤野克義巡査部長と上柳裕巡査が二人同席しながら行なわれている。そしてまず上柳巡査が身上調書である乙2号証を作成した後、ワープロで清書して被告人に読み書かせた上、署名・指印させ、しかる後に藤野巡査部長が乙4号証の作成に取りかかったのである。時間的には午後1時15分から午後4時05分の間、すなわち2時間50分間であり、当番弁護士との接見は、午後2時から午後2時22分までの22分間である。
 さて、藤野証人は、午後1時から午後2時での間に、乙2号証の作成をすべて終え、乙4号証の「3」の部分を作成している途中で、弁護士の接見が入ったと証言している。しかしこれは極めて不自然である。なぜなら、たった45分間の間に、99行もの(乙2号証および乙4号証の「モラル」の行まで)調書を作成するのは物理的に不可能だからである。もしそれが可能だとしても、残りの100行(「モラル」の次の行から最後まで)を作成するのに、1時間43分もかかっている理由が説明できない。さらに、どの部分で中断したかについての藤野証人の証言はあやふやで信用性がない。しかも取調べ冒頭には、被告人は「弁護士を呼ぶまでは取調べに応じない」と主張していたのである。スムーズに調書作成が進むはずがない。
 実際のところは、最初の45分間に乙2号証の聞き取りが行なわれ、接見後に、乙4号証の作成に応じたのが真実である。したがって、私が主張したいのは、要するに、弁護士と接見したからすっきりして供述を翻す気になった、という証言は偽証であるということである。供述を翻したのは他に理由があるということである。


2 取調べの実際
 当公判廷で明らかになったように、被告人は逮捕後の川端署引致以来、一睡もしていない状況で取調べを継続していたのであり、まさに精神的・肉体的な疲労は極限の域にあった。被告人は、自由を拘束され、まさにライブの開催も危ぶまれる状態で、一刻も早くこの拷問のような取調べから解放されたいと願っていたのである。供述調書を詳細に精査すれば、供述が真実に反すること、ゆがめられた痕跡があることを容易に見出すことができるだろう。被告人がいかなる違法性の認識も持っていなかったことは明らかになるであろう。


3 違法性の認識の可能性はなかった
 さて、起訴状によると、私は「京都市屋外広告物等に関する条例」第5条第1項の違反容疑で起訴されているとのことである。そこで、該当する条文の文面を仔細に検討してみることにすると、まず当該の第5条第1項には、「何人も、次の各号に掲げる建築物等に、屋外広告物を表示し、又は掲出物件を設置してはならない。ただし、法定屋外広告物、管理用屋外広告物及び公益、慣例その他の理由によりやむを得ないものとして別に定める屋外広告物並びにこれらの掲出物件については、この限りでない」と定められている。以下の各号で限定列挙された建築物の中に「電柱」(第4号)が含まれているのだが、しかし、ここで刮目すべきであるのは後段但書の内容である。「公益、慣例その他の理由によりやむを得ないものとして別に定める屋外広告物」とはいかなるものなのか。実は、その内容は本条例中には記載されておらず、より下位の「京都市屋外広告物等に関する条例施行規則」なる行政規定に白地的に委ねられている。
 そこで、この施行規則を詳しく見てみると、第4条第6号にいう「葬儀、祭礼、集会その他これらに類する行事(営利を目的とするものを除く。)を行う会場、日時その他これらに類する事項を案内するために当該行事の関係者が表示する屋外広告物で、表示する期間をその物に明記するもの(当該期間内にあるものに限る。)」がそれに該当することが分かる。つまり、今回の河内音頭ビラは、営利を目的としない盆踊り、すなわち祭礼に類する行事の案内に他ならないから、初めからビラに表示する期間さえ明記していたのではないでしょうか。そう考えない理由はない。だとしたら、条例施行規則の内容、その煩瑣な除外規定を知らなかったがために事件が起こり、結果として刑事責任が問われているのだとしても、そのような細かい規則の不知を、一体誰がとがめることができるだろうか。そもそも、本条例および施行規則に定められた細かい内容を、今、この法廷にいる人間の誰が正確に認識しているだろうか。証人尋問で明らかになったように、これを取り締まる側の警官や刑事でさえ知らないことを、一般の市民がどうして知り得るのだろうか。そもそも、屋外広告物条例自体が、広告業者向けに作られた条例なのである。また、さらに言えば、当該の電柱付近に、ビラを貼ることを禁ずる警告が書かれていた、というような事実も認められないのである。ここには、いかなる違法性の認識の可能性もなかったと言うべきであろう。


4 意味の認識について
 被告人である私の主張は、冒頭手続において述べた通りである。事件当時、被告人は京都市屋外広告物条例なる法令の存在を知らず、本件行為が違法な行為であるとは認識していなかった。あえて言えば、ピンクチラシ等の「有害ビラ」を、繁華街の電話ボックスや電柱などに貼れば、何らかの条例によって処罰されるだろう、程度の曖昧な認識しか持っていなかったのである。そしてそのような条例が、今回のような非営利のビラまでその処罰の対象としているなどとは想像したこともなかったし、京都大学周辺がビラ貼りの規制対象区域に入っているとの認識も保持していなかった。なぜなら、大学周辺には常に雑多なビラが氾濫していたし、そのようなビラを貼ったことで検挙されたなどという話を一度も聞いたことがなかったからである。
 ところで、本件は行政刑罰法規に関わる事件であるから、単にビラを貼るという生の事実の認識だけでは足りず、「禁止区域内において禁止物件にビラを貼る」という認識が必要になり、これを欠けば故意責任は阻却される。学説ではこれを「違法性の認識」とする考えも有力だが、近年ではむしろ「規範的構成要件要素の認識」、すなわち「意味の認識」に組みこむ考えが有力である。
 判例では、銃猟禁止区域内であることを知らなかった事案について、銃猟禁止区域において狩猟をした罪の認識を欠き故意を否定したもの(東京高判昭35・5・24高刑集13・4・335)、追越禁止区域内で追い越すという認識を要するとして故意を否定したもの(東京高判昭30・4・18高刑集8・3・325)、営業許可があったものと誤信した場合には無免許営業の故意は認められないとしたもの(最大判平元7・18刑集43・7・752)、等がある。
 ところが、当該の京都市屋外広告物条例が定める規制項目は極めて煩瑣にわたっており、また、市当局がその規制内容について広く市民に周知させる努力を怠っていたこともあり、当時被告人を含む一般市民がその禁止物件、禁止区域について明確に認識し得る可能性は皆無であったと言わざるを得ません。したがって、被告人が京都大学周辺をその規制の及ばないものと誤解し、あるいは非営利ビラは処罰の対象とならないと誤信して当該ビラ貼り行為を行ったとしても、被告人に非難されるべき落ち度があるとはいえないのであり、したがって本条例違反の故意は阻却されるべきものである。


第5 違法な逮捕・抑留について


1 本件現行犯逮捕は逮捕の必要性の要件を欠いた違法な逮捕である
 現行犯逮捕においても逮捕の必要性はその要件となる。学説上では、現行犯逮捕も人身の自由に対する重大な制約であり、しかも令状主義の例外であることから、これを要件とする説が通説的見解を占めてきた。判例においては、かつては刑事訴訟法上の明文規定の不存在を理由に、必要性不要説に立つものも見られたが(東京高判昭41・1・27下刑集8・1・11等)、近年では、「現行犯逮捕も人の身体の自由を拘束する強制処分であるから、その要件はできる限り厳格に解すべきであって、通常逮捕の場合と同様、逮捕の必要性をその要件と解するのが相当である」(大阪高判昭60・12・18判時1201・93等)とする必要性要件説が一般化した。現行犯逮捕でも逮捕の必要性が不可欠なことは「通常逮捕等の場合と別異に解すべき理由はない」(福岡地判昭59・3・19判時1114・81)からである。
 そもそも、逮捕の必要性とはいかなるものか。刑事訴訟法199条2項但書によれば、「明らかに逮捕の必要がないと認めるとき」は裁判官は逮捕状を発することができないとされている。これを注釈した刑事訴訟規則143条の3を見ると、「被疑者の年齢及び境遇並びに犯罪の軽重及び様態その他諸般の事情に照らし、被疑者が逃亡する虞がなく、かつ、罪証を隠滅する虞がない等」の事情と説明されているが、この「等」という文言が逮捕の「相当性」を欠く場合を意味することは明らかであり、諸般の事情を総合的に考察し、身体を拘束することが社会通念に照らして明らかに不穏当と認められる場合を指す、とする見解が通説である。この規定は当然、現行犯逮捕の場合も準用されるべきものであって(大森簡判昭40・4・5下刑集7・4・596等)、さらに刑事訴訟法217条において、軽微な事件の現行犯について、「犯人の住居若しくは氏名が明らかでない場合又は犯人が逃亡する虞がある場合に限り」逮捕できると制限を加重していることを考え合わせてみると、現行犯逮捕の場合にも、明らかに逮捕の必要性がないときは逮捕は許されないとする趣旨を述べたものと考えられる。
 ひるがえって、今回の事件における逮捕状況を検討してみると、まず逃亡のおそれがあったのかどうかが問題になる。しかしながら被告人は、職務質問を受けた直後に自らの運転免許証を瀬下義光巡査部長に手渡しており、その後は同僚の大石氏がずっと免許証を保管していた(第3回公判における瀬下証人の反対尋問)。自分の免許証を警官に手渡したまま、その場から逃走するなどという行為はまさに不合理なふるまいであり、職務質問当初にライブ終了後に出頭する旨を申し出ていたこと(甲11号証の現行犯人逮捕手続書)、さらには東一条交番でなら取り調べに応ずると申し出ていた事実(第3回公判における検察側主尋問で明確に述べられている)は各証拠から認められるのであって、このような事情を勘案すると、「逃亡のおそれがあった」とする瀬下証人の証言は信用性がない、と断ぜざるを得ない。職務質問の最中に自転車のペダルを踏み出し、逃走のそぶりを見せるようなことは全くなかったし、またたとえ被告人が終始、自転車にまたがったままであったとしても、ごく至近距離に屈強な6名の警察官がいたことなどを考えると、逃亡すると疑うに足る相当な理由が存在しないばかりか、逃亡する可能性ですら皆無であったと言わざるを得ない。
 さらに、住所不詳の要件について検討してみると、瀬下証人の証言(第3回公判における反対尋問)や現行犯人逮捕手続書(甲11号証)からも分かるように、本件現行犯逮捕は逃亡のおそれがあったために行われたとされており、この要件は少なくとも逮捕時には問題となっていない。そもそも今回の逮捕は、被告人の言動に対して警察官が理不尽に憤激し、報復するための懲らしめ的な逮捕に他ならず、「逮捕を行うに当っては、感情にとらわれることなく、沈着冷静を保持するとともに、必要な限度をこえて実力を行使することがないように注意しなければならない」とする犯罪捜査規範126条に明確に違反するものであった。また、第3回公判における瀬下証人の証言にはっきりと示されているように、逮捕の直接的な原因は、逃亡のおそれではなくむしろ被告人の態度なのであり、このような警察官の恣意的な判断によって、厳格であるべき逮捕の基準が左右される状況は、まさしく不平等逮捕として著しく公平性を欠くものである。


2 本件留置継続は留置の必要性を欠いた違法な抑留である
 刑事訴訟法203条1項は、「留置の必要がないと思料するときは直ちにこれを釈放し」なければならないと定めている。したがって留置の必要性がない、あるいは消滅したのにこれを継続することは明らかな違法となる。このことは特に、軽微な犯罪の現行犯逮捕において問題となる。今回、被告人に逃亡や証拠隠滅のおそれがなかったことはすでに明らかであり、そこで検察側が主張するような住居不定の事実があったのかどうかを検討することにすると、被告人がたとえ居候の身分であったとしても、その生活の本拠を京都大学吉田寮に置き、公用に用いる住所をすべて吉田寮としていたことは各証拠から容易に認められる(甲8号証の運転免許証、乙1号証の戸籍謄本、甲11号証の京都大学理学研究科の回答等)。そもそも、ほかならぬこの公判に関する書類がすべて吉田寮宛の住所で何らの遅滞なく届いている事実からも証明されるのであって、居候たる被告人が、大学当局の有する在寮生名簿に記載されていないのは当然であり、したがって大学側の回答である甲10号証は、決して被告人が吉田寮に現住しているという事実を反証したことにはならない。よって、逮捕に必要性の要件が欠けていたのと同様、留置継続にもまた正当な理由は存在していなかったのであり、ここではあらゆる意味でデュープロセスに反した、法の謙抑主義を踏みにじる違法な捜査が行われたことになるのである。


3 被告人は無罪判決を求める
 私はここで最後に、例えば情状酌量の結果としての罰金額の軽減、もしくは罰金への執行猶予の付加といった「温情判決」を求めるつもりは全くありません。それはまさに「日和見的」としか言いようのない無意味な解決であり、そのような判断を裁判所が下すことは、裁判所が自らの使命を放棄することにほかならないからです。したがって、被告人である私は、この最終の意見陳述において、当初の略式命令の求刑通り「罰金7万円」、さもなければ「無罪」、この二つのうちいずれかの判決を下すことを、裁判所に対してはっきりと要求するものであります。
 さて、今や私は、本件は適用違憲である、可罰的違法性がない、逮捕・勾留も違法である、よって無罪、という最終的な判決が下されることを確信しております。なぜなら、私がこの半年間に学んだ法律解釈学の正当な論理に従って思考すれば、それ以外の判決が出る理論的余地は全くないからです。この「河内音頭ビラ貼り事件」について、裁判所が明確な憲法判断を下して頂けることを私は心から期待しております。
告白すれば、私の現在の関心は、むしろ私が提出した第3の論点にあります。つまり、違法性の意識、その可能性、また供述調書の信用性について、裁判所がどのような認定を行うのか。なぜなら、事件当時に「違法行為の意味の認識」があったかどうか、という主観的要素の事実認定に関して、真実はほかならぬ私自身がいちばん良く知っているからです。
 長時間の取調べや勾留によって、どのようにして虚偽の自白が作り出され、真実が捻じ曲げられるということが起こり、結果としていかに多くの冤罪を生んできたか、という例証を書物から学ぶことは容易です。しかしそれを私は実体験から、自らの身をもって理解しました。これは稀有な経験でした。


 表現とは何でしょうか。
 裁判の間じゅう、この問いは私から離れませんでした。
 ビラ貼りは有罪でしょうか。
 ともあれ、私はこの裁判を、私自身のひとつの表現として行いました。
 それだけは確かです。                                      
 河内音頭ビラ貼り裁判
最終意見陳述(第7回公判)
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